話したいのに言葉が出ない|脳出血後に失語症が残った48歳男性の実例

脳出血のあと、「歩けるようになった」「手が動くようになった」という回復は周囲からも分かりやすい変化です。

一方で、見た目では分かりにくい後遺症もあります。その一つが失語症です。

本人は相手の話を理解しているのに、言葉が出てこない。伝えたいことがあるのに伝えられない。家族もどう接したらよいか分からず、お互いに苦しんでしまうことがあります。

今回ご紹介する藤田剛士さん(仮名・48歳)もその一人でした。

右半身の麻痺はリハビリによって大きく改善し、病院内では独歩(杖や介助なしで自分一人で歩くこと)で移動できるまで回復しました。

しかし、退院後の生活や施設への入所を考えたとき、大きな課題として残っていたのが「言葉(コミュニケーション)」でした。

歩けるようになったのに、会話が難しかった藤田さん

藤田さんは48歳の男性です。仕事中に突然話せなくなり、右半身の麻痺が出現しました。

病院へ救急搬送され、左被殻出血(ひかくしゅっけつ)による右片麻痺と診断を受けます。

左被殻出血とは、脳の深い部分にある「被殻(ひかく)」という場所で出血が起こる病気です。被殻は運動の調整に関わる部位ですが、その周囲には言葉を扱う神経の通り道も存在するため、出血の範囲によっては右半身の麻痺だけでなく失語症が現れることがあります。

発症当初の藤田さんは、次のような状態でした。

・重度右麻痺(右半身が自分の意思ではほとんど動かせない状態)
・重度の運動性失語(言いたいことは分かっていても言葉として話しにくくなる障害)
・日常生活動作(食事・整容以外)の多くに介助が必要

しかし、約半年に及ぶリハビリテーションを続ける中で、身体機能は驚くほど改善していきました。

・移動動作:短下肢装具(麻痺の影響を抑えて歩きやすくするための足用の器具)を着用し、自室からトイレまで(15m程度)を介助なしで独歩できるまでに回復
・身の回り動作:着替えや服の出し入れ、洗濯物たたみ、食器洗いなどの家事動作も工夫次第で一人で実施可能

身体機能だけを見れば、順調な回復を遂げているように見えました。

しかし、いざ「会話」の場面になると、状況は全く異なっていたのです。

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左被殻出血と失語症(運動性失語)の特徴

失語症とは、脳の言語機能が障害されることで起こる症状です。

耳が聞こえないわけでも、知能が低下したわけでもありません。

左被殻出血では、言葉を話す働きに影響が出ることがあります。特に左脳は多くの人にとって言葉を扱う中心的な役割を担っているため、言いたいことが頭の中にあっても言葉が出てこなかったり、会話の返事に時間がかかったりすることがあります。

被殻そのものが言葉を作る場所ではないため、症状の現れ方は出血の大きさや広がった範囲によって大きく異なります。そのため、同じ左被殻出血でも、言葉への影響が軽い人もいれば、会話に大きな支障が出る人もいます。

また、この症状は単なる「ろれつが回らない状態」とは異なります。口や舌がうまく動かず発音しにくくなるのではなく、言葉を思い出したり、言いたい内容を言葉として組み立てたりすることが難しくなるのが特徴です。

一方で、人の話を理解する力は比較的保たれていることも多く、適切なリハビリテーションによって改善が期待できる場合があります。

藤田さんの場合も、相手の話は比較的理解できる(短い文章であれば10割理解可能だった)ものの、発語のほとんどが「 i: (イー)」という発声や、ヤ行に近い歪みのある音になってしまい、口頭で意味のある言葉を伝えることが非常に困難な状態でした。

本人の頭の中に伝えたい意思があるのに、それを言葉に変換する伝送路が途切れてしまっている。それが運動性失語のもどかしさです。

実際の生活で困っていた具体的な場面

病院や家庭訪問の場面では、以下のようなリハビリ・生活上の課題に直面していました。

① 自分の言葉で意思を伝えられない

「痛い」「なんで」といった意味のある言葉が稀に出ることはありましたが、基本的には発声と指差しが主でした。

描画(絵や図をえがくこと)や文字を書く訓練も行いましたが、いざ自分の訴えを伝えようとするときは「イメージが浮かばない」などの理由で描くことを諦めてしまうことが多く、代償手段(言葉の代わりにジェスチャーや絵などを使って意思を伝える方法)として定着しませんでした。

② 予定やルールの変更に対する混乱

日常の予定や、自分の中で決めているルールが変更されたとき、藤田さんは「違う」ということを周囲に訴えようとされました。

しかし、うまく伝わらないと興奮してしまい、相手の言葉を十分に聞けなくなって混乱が深まるという悪循環が見られました。

③ 家族(妻)とのコミュニケーションの壁

一番の課題は、ご家族とのやり取りでした。藤田さん自身、口頭で相手に伝わらないことをまだ十分理解しきれていない面があり、キーパーソン(介護や支援の中心となる家族のこと)である奥様もまた、この重い障害の現状を受け止めきれていませんでした。

そのため、夫婦間でのコミュニケーションが上手く取れず、お互いに強いストレスを抱える状態になっていたのです。

リハビリで行われていた関わり方の工夫

言語聴覚士をはじめとするリハビリスタッフは、言葉を引き出す訓練だけでなく、「今ある能力でどうコミュニケーションを成立させるか」という工夫を行いました。

・Yes・No反応の活用
藤田さんはうなずきなどでの「Yes/No」の信憑性は高い状態でした。ただし、作業中などは適当にうなずいてしまうこともあるため、「作業が一段落するのを待ち、しっかり聞くよう促してから話しかける」という配慮を徹底しました。

・相手が「推測」して確認する
本人の表情やジェスチャーから、周囲が「〇〇ですか?」と推測して確認します。推測が近いときは、藤田さんから「近い」というジェスチャーが返ってくることもありました。もし本人の訴えと違っている場合は、本人が発声で説明しようとして泥沼化しやすいため、一度落ち着いて何度か確認し直す工夫が必要です。

・文字やジェスチャーを交えて伝える
言葉だけの説明では1度で理解しにくい場合でも、文字やジェスチャーを交えて繰り返し説明したり、作業を一緒に行ったりすることで、藤田さんはしっかりと理解することができました。

(なお、絵や文字で意思を伝えるコミュニケーションノートや、薬の自己管理などは、ご本人の強い拒否があり、この時点では使用・実施ができていませんでした)

まとめ:歩けるようになっただけでは「生活復帰」とは言えない

医療や介護の現場では、「歩けるようになったからもう安心だ」と捉えられがちです。

しかし藤田さんの実例が示すように、身体がどれだけ動くようになっても、「家族と意思を通わせる」「自分の困りごとを正しく伝える」というコミュニケーションの壁が残っていれば、本当の意味での安心した生活は送れません。

失語症は、本人の努力不足でも、周囲への反発でもありません。

大切なのは、「周囲の人(家族や介護スタッフ)が現在の機能を正しく理解し、関わり方を合わせていくこと」です。

もしご家族が失語症になり、お互いの気持ちがすれ違って悩んでいる場合は、決して一人で抱え込まず、主治医の他、担当の言語聴覚士(ST)やケアマネジャー(介護保険のサービス計画を立てる専門職)に相談してください。

お互いの状況を理解し「話し方のコツ」を一緒に見つけていくことが、在宅生活や施設生活をスムーズに進めるための第一歩になります。