脳出血のあと、歩行能力が向上することはリハビリテーションにおける重要な目標の一つです。
起き上がって車椅子でトイレまで自力で行けるようになり、歩行練習が進むと、本人や家族は「良くなってきた」と感じることが多くあります。
しかし、脚の支えが強くなって歩行能力が向上すると、すぐさま単独行動が可能になるとも限りません。
今回取り上げる清水仁さん(仮名、発症当時44歳)は、身体機能の回復が進む一方で、院内での転倒が複数回発生していました。その背景には、運動麻痺だけでは説明できない脳卒中後の後遺症が存在していました。
この記事では、リハビリテーションの評価をもとに「歩けるのに危険性が高い」と判断される理由と、その後の回復に向けた具体的な取り組みについて解説します。
脳出血によって左半身に障害が残った清水さん
清水さんは脳出血(右の被殻)を発症し、左半身に麻痺が残りました。発症当初からみられた主な症状は以下の通りです。
- 左片麻痺:
上下肢の麻痺の程度を評価するブルンストローム・ステージは、上下肢・手指ともにⅢ〜Ⅳ(共同運動と呼ばれる一塊の異常な動きから脱却しつつある段階)であり、特に下肢は、足首まで動かすことがやや可能でした。 - 重度感覚障害:
皮膚の表面で感じる表在感覚(触覚や痛覚など)と、関節の位置や体重のかかり方を捉える深部感覚の双方が、左上下肢において重度に鈍麻していました。(検査上の判定) - 半側空間無視(USN):
脳の障害によって、麻痺側である左側の空間にある物体や情報に気づきにくくなる症状が確認されました。 - 注意障害:
一つの事柄に意識を集中し続けたり、周囲の状況を確認したり、複数の作業へ同時に気を配ったりすることが難しくなる高次脳機能障害(脳の認知機能の障害)の一つです。
清水さんは、リハビリテーションに対して非常に高い意欲を持っており、「話したい・動きたい・働きたい」という要望を持たれていました。
また、ご家族からも「ここに来て急に良くなっているのでリハビリに集中してほしい※」といった期待が寄せられていました。
※清水さんは、転院してきており、前院では臥位や座位での訓練までしか行っていませんでした。
そうして車椅子中心の時期を経て、実用的な歩行訓練のような、ダイナミックなリハビリへと移行していきました。
転倒リスクが目立っていた背景
リハビリテーションを進める中で、立ち上がり、移乗(椅子やベッドへ乗り移る)、トイレ、歩行といった各基本動作には一定の改善が認められていました。
しかし、同時に複数の神経学的障害による影響から、転倒する危険性が高く、安全性の確保が課題となっていました。
注意力の低下により、動き始めの確認不足や、体勢が崩れたまま急激に身体の向きを変える、突然動作を中断する、といった様子が頻発していました。
移乗動作の際には、車椅子のブレーキ忘れや足台(フットレスト)を上げ下げすること、麻痺側足部のセッティング(麻痺している側の足を床や足台の適切な位置に置くこと)において、ほぼ毎回口頭での注意喚起が必要な状態でした。
机上検査や実際の動作場面において、左側の空間認識が困難な状態(左側の見落とし)が確認されていました。
車椅子を漕ぐ時に、左側にある障害物や人への衝突に注意を要するほか、衣服の着脱など身の回りのことを行う手順を記憶して実行することが困難であり、介助や口頭指示を要する原因となっていました。
皮膚の触覚などの表在感覚、および手足の位置や動きを察知する深部感覚が、検査上は重度に鈍麻していたため、自分の身体の位置や体重のかかり具合を正確に把握すること(意識を向けること)が困難でした。
これにより、以下のような姿勢不良やバランスの崩れが生じていました。
- 立位を保っていることが困難:
手足の位置や体重のかかり方がわかる感覚(深部感覚)の低下により、物につかまらずに立っていると、麻痺側下肢の屈曲や体幹の回旋が突発的に起こり、立っていられなくなる傾向にありました。 - 歩行時の支持性低下:
麻痺側の足が地面につくとき、足首が内側にねじれて外側から着地してしまいます。そのせいで、膝がカクッと折れやすく、バランスを崩したときに自力では立て直せず、介助が必要となっていました。
リハビリテーションにおけるアプローチ
この時期の理学療法では、単なる筋力の強化ではなく、麻痺側下肢への適切な荷重応答と姿勢の制御に焦点が当てられていました。
- 荷重入力と支持性の向上:
左足(麻痺側)にしっかり体重をのせられるようにするリハビリを行いました。具体的には、膝を少し曲げた状態で足にグッと力を入れて耐える練習や、体をまっすぐ起こした姿勢をキープする練習を組み合わせて実施しました。 - 短下肢装具の作製:
歩くときに、足首が内側にねじれたり、膝が伸び切ったり折れたりするのを防ぎ、つま先も上がりやすくするために、室内用のプラスチックの靴(短下肢装具)を作りました。これで麻痺による過剰な緊張を抑え、転倒する危険を減らすことを目指しました。
これらのアプローチにより、清水さんは、だんだんと手足の感覚を感じるようになっていき、1ヶ月後の再検査では、表在・深部感覚ともに、重度→軽度の鈍麻に改善されていました。
回復に向けたプロセス:高次脳訓練と外泊訓練の積み重ね
しかし、体が動くようになってきても、注意が散漫になったり、左側のものを見落としたりする症状(高次脳機能障害)が残っていました。
そのため、いきなり思いがけない行動をとったり、動作の手順を間違えたりすることがあり、日常生活のなかで「一人で大丈夫」と判断して見守りをなくすのは、まだ難しい状態でした。
このような課題に対し、入院中は、一般的な高次脳機能障害に対するリハビリテーション訓練(注意力の分配や空間への意識付け、動作手順の確認など)が実生活の場面に即して進められました。
さらに、実際の生活環境に適応していくため、病院外への「外泊訓練」が繰り返し取り入れられました。この段階ではまだ転倒リスクが残っていたため、実践的な環境での安全確保が最大のテーマとなりました。
清水さん自身も危険性に対する認識を深め、外泊時には転倒による重傷を防ぐための独自の工夫を行いました。ヘルメットやスケートボード用の関節保護具(プロテクター)を着用していたと言うのです。これは医療従事者が設定したものではなく、本人が自ら考えて実践した安全対策でした。
こうした取り組みによって実際に脳の損傷部位そのものが治癒したわけではありません。
しかし、刺激の多い実生活環境の中で試行錯誤を重ねながら活動を継続した結果、注意の向け方や危険回避の方法、環境への適応能力が徐々に向上し、高次脳機能障害による日常生活上の問題は軽減していきました。
このように、病院内での高次脳訓練と、自ら安全対策を講じながらの実生活へのチャレンジ(外泊訓練)を相互に繰り返すプロセスを経て、清水さんの状況は着実に改善へと向かっていきました。
まとめ
脳卒中片麻痺患者の在宅復帰に向けては、歩行の可否だけでなく、注意力や空間認識、感覚情報の統合といった能力が安全性に大きな影響を与えます。
清水さんのケースは、運動機能が一定のレベルに達していてたとしても、危険予測や手順の定着に課題がある場合は、「自立」と判断することの難しさを示しています。
現在の清水さんは・・・
なお、急性期から回復期にかけては高次脳機能障害や重度感覚障害により慎重な介助・監視を必要とし、外泊時にも徹底した防護具の着用を要していた清水さんでしたが、
最終的には日常生活動作の自立にとどまらず、海外旅行への同行や仕事への復帰を果たしています。
さらに、患者の会への参加や講演活動といった社会的な活動を展開するに至っており、長期的なリハビリテーションの成果と本人の適応能力の高さを示す一例となっています。
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